(真)日本の黒い霧

123便事件は世界の闇を照らす

呪詛を考える(1) - 呪詛(じゅそ)とは何か

※本サイトを読まれる方は、ブログ開設の主旨をまずご理解し、ご同意ください。

 

このサイトでは、おそらく頻繁に「呪詛(じゅそ)」なる言葉が使われるかと思います。そこで、まず、呪詛とは何か、その様式や実効性などについて語ります。簡単に言って人を呪うことですが、そんなものは非科学的だと頭から否定される向きが大半なのでしょう。しかし、そんなお考えの方でも心療師が医療技術の一つとして、実際に催眠術を使うことまでは否定されないでしょうか。催眠術とは、人の無意識化の心理に働きかけ、その人をコントロールする技術と言ってよいかもしれません。

 

別の言葉で表現するなら、呪詛とは「悪意を持った洗脳」と言えるのではないでしょうか。現代でも、新興宗教団体による洗脳や、サブリミナル効果を利用したメディアによる洗脳などが話題になります。一番わかりやすのが、徹底的な繰り返しや反復学習によって反射的に一定の言動が発生するように人を変えてしまうことです。それを言ってしまえば、教育そのものが洗脳とも言える訳ですが、読み書きや計算、スポーツや楽器演奏など、社会的に不可欠なコミュニケーション力を養成したり、個人が持つ優れた能力を引き出すという面では、その効果は必ずしもマイナスばかりと言えません。ここに「悪意を持った」という断り書きを入れた理由があります。

 

では、「悪意」とは何かということになりますが、善悪の判断基準がそもそも人によって異なるので、一概に定義できるものではありません。そこで、ここでは悪意の基準を次のように定めます。

 ・他人の生命・生存を脅かすもの、心に恐怖または悲しみを生み出すもの

つまり、呪詛とは「人の生命・生存を脅かし、心に恐怖と悲しみを生み出す」ための洗脳行為と定義付けることができます。

 

例えば、「バカヤロー、死んでしまえ!」という言葉が発せられたとします。確かにひどい言葉であるとは思いますが、この言葉自体が果たして呪詛かどうかは微妙なところです。それは言葉の持つ強度が会話当事者の関係性と、その時発生した事実そのものに委ねれるからです。危険行為を冒した当事者に注意した場合と、知らない相手から突然吐かれるのでは、自ずと意味合いが変化するということです。後者の場合は、事情も分からず一方的に暴力的非難を浴びる訳ですから、断定できないまでも呪詛的であるとは言えるのではないでしょうか。

 

そのような、悪意が文意から容易に読み取れるケースよりも、次のような文面の方が実は呪詛的であると私は考えます。

・戦後最大級の超大型台風が接近中、来週上陸する可能性が大きい。

嘘は吐いてないとしても、「最大級」とか「超」、「上陸する可能性」は極めて主観的な言葉で、実は話者の考えを押し付けているとも受け取れます。受け取った側も、具体的な数量が示されていないため、話者よりも過剰に台風を危険と解釈してしまう可能性があります。注意喚起であり、安全のために結構なのではとも思われますが、気象情報は繰り返し何度も放送され、未来に対する漠然たる恐怖として視聴者の心理に刻まれ続けます。

 

何だか小難しくなってしまいましたが、要するに、普段耳にする言葉の中に、特にメディアの言葉の中に、知らず知らずに受け手の心理に影響を与えるフレーズがちりばめられていることにご注意ください。職業としての祈祷師や魔術師が暗躍した時代と比べて、今はテレビやインターネットなどがそれにとって代わり、心を恐怖で満たす「魔法の言葉」をばら撒いています。

 

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